京都便利堂さんのご本
こちらの本を読んでおりましたらーー
ポストクロッシングのことが紹介されていました!
以前、こちらのお店が主宰されている「明治の絵はがき交換会」に参加したときのことを記事にしました。それを御覧になった京都便利堂さんがTwitterでご紹介くださったり、私がお送りした絵はがきを受け取られた方が名乗り出てこられたりと、不思議でありがた~いご縁が生まれております。PPAPで大ブレイクしたピコ太郎さんじゃないけど、「ネット、すげー!」、いえいえ、ここはお上品に「ありがとう存じます」。
このスバラシイ企画には、4月、5月と連続して参加させていただき、5月分で頂戴した絵はがきのこともご紹介しました。
その時は国内に送るハガキの切手代は52円、今月から10円アップして62円になりましたが、では、明治の絵はがき交換のときはいくらだったかというとーー。
一銭五厘だったそうです。
この価格、当時の人はどう感じていたのか興味があります。あるイベントで参加を受け付けたところ、三日間で1万通以上の申し込みがあったそうなので、庶民が気軽に参加できる価格だったのかな?
便利堂さんと内村鑑三
絵はがきの歴史について書かれた本の中に、ビックリ仰天の情報を見つけ、今、手が震えております。
キリスト教思想家で、北海道大学の前身・札幌農学校に学んだ内村鑑三の著書『後世への最大の遺物』が最初に刊行されたのが、便利堂だったというのです!
高校時代、日本史で「不敬事件」習いましたね~。内村鑑三は教育勅語への拝礼を拒否したことを責められ、一高の教壇から追われました。その後のことはまったく知らなかったのですが、彼は京都に逃れ、便利堂の創業者と知り合い、例の本も出版されたというのです。
岩波文庫版がうちにありました。
はしがきを読みながら、再び手が震えております。
この小冊子は、明治二十七年七月相州箱根駅において開設せられしキリスト教徒第六夏期学校において述べし余の講和を(中略)ここに印刷に附せしものなり(中略)これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし。読者の寛容を待つ。
明治三十六年六月二十日
東京青山において
そして、大正十四年(1925年)に改版された際、序文を「私はこの小著述をその最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天にありて安らかんことを祈ります」と結んでいるのです。
注がまたすごい!
中村弥左衛門(一八七〇ー一九二五)の実弟弥二郎氏により、一八八七(明治二〇)年、京都に貸本屋便利堂が創業され、まもなく出版業も営む。弥二郎は、「不敬事件」後の内村鑑三に弥左衛門と相談して自宅の離れを提供する。一九〇一年、弥二郎の上京後、弥左衛門が便利堂を経営、印刷所も設け絵葉書などの美術出版も始めた。
1923年には、中村家滞在を記念した石碑が建てられた、とありますが、現存しているのでしょうか?