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小石川後楽園② 回遊式庭園

性懲りもなく、また、後楽園に行ってきました。今日は、ゲストをご案内するという用事があったので、自分が楽しむというよりも、どうやって後楽園の魅力を伝えられるか、多少考えながら回ったのですが、昨日、きれいに咲き誇っていたオニユリキンシバイも、元気がなくて、驚きました。本当は、お花を紹介したかったんですが。

水戸徳川家のお庭は、江戸で最初に作られた大名庭園です。京都のお寺のお庭との決定的な違いは、回遊式ーーつまり、歩き回る庭ーーであること。お寺の名園は座ってじっくり拝観する「雅」系が多いと思うのですが、江戸の大名屋敷では、お庭は接待の場所。大切なお客様をお招きしては、時間をかけて園内をゆっくり散策できるように計画されたのです。昨日、今日と、園内をゆっくり歩いただけなのに、なぜにこんなに疲れるのか、と思うほどです。起伏もあるので、いい運動になりますよ。

お庭の真ん中には大泉水が設けられているのが、大名庭園のお約束事の一つです。

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いずれも広大で、池の周囲を歩いて回りながら楽しめるよう、全園を貫くストーリーに沿って趣向が凝らされています。言うなれば、回遊式テーマパーク。後楽園の場合は、内外の景勝地が縮景になって配置され、一周すれば、京の都、駿河(現静岡県)、信州、奈良といった日本の有名観光地のみならず、中国の西湖までバーチャル旅行ができたのです。

後楽園の大泉水は琵琶湖をイメージしていると言われます。何で分かるかというと、岸辺に唐崎の松を模した一本松があるからなのです。

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本物の唐崎の松に似ているそうですが、いかがでしょう?

池の中央にある蓬莱島は、不老長寿を願って長寿を意味する亀の形だと言われ、徳大寺という守護石が置かれ、弁財天も祀られています。

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大泉水のベストポジションには、カワセミをカメラに収めようと、朝からカメラマンの放列ができますが、今は護岸工事の真っ最中なので、カワセミ撮影は中断。

 現在の庭園入口を抜け、枝垂桜の木をめでたら、左に折れて歩いていくのが通常のご案内コースです。右手に見えるこんもりした丘が小廬山。中国江西省にある本家の高山には遠く及ばないものの、心意気だけは、「江戸で中国の名山をめでるのじゃ~」という感じですかね。

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この先は、ミニチュアの大堰川にかかるウソっこ渡月橋を渡り、「京都へご案内します」という趣向です。しかも、右手奥に、本物とは似ても似つかぬ通天橋が望め、ふと左を見ると、そこは何と中国の西湖堤ですよ! 本当にしょうもない感じもしますが、今みたいに自由に旅ができなかった江戸時代の大名たちを最大級にもてなしたかった光圀たちの気持ちを汲んで、ここは「結構な眺めですなあ」とつぶやいてください。写真は、通天橋からの景色で、渡月橋が見えますね。

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 お庭づくりに関わった3人の男たち

徳川頼房:家康の11子で水戸藩の初代藩主。家康は晩年に生まれた3人の息子を特に可愛がり、義直(9子)を尾張、頼宣(10子)を紀伊、頼房を水戸家に封じて御三家を成立させました、水戸徳川家は「天下の副将軍」と呼ばれますが、江戸住まいを許された数少ない大名であり、将軍を補佐する大切な役目を負っていました。1629年に2代将軍から小石川の土地を与えられ、後楽園の作庭も始まりました。

徳川光圀:言わずと知れた黄門さまです。頼房の3男ですが、事情があって水戸藩を継ぎます。後楽園は光圀の時代に完成しました。黄門さまについては、あらためてまとめるつもりです。

朱舜水:中国・明の儒学者で、明が滅亡の危機に瀕すると長崎に亡命してきました。1665年、光圀に招かれて江戸に上り、死去するまでの18年間、光圀の師として水戸藩中屋敷・駒込邸(現東大農学部内)に入り、生涯そこで過ごしました。儒学や礼法のみならず、造園技法や農業技術など、広い分野で光圀に強い影響を与えたと言われます。後楽園という名前も瞬水の命名で、宋の范仲淹の『岳陽楼記』の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみにおくれて楽しむ)「先憂後楽」から後楽園と名付けました。東大農学部に「朱舜水先生終焉之地」という碑があるというので、探しに行こうと思っています。

つづく……