KGB博物館
リトアニアでさわやかな夏を過ごしながら、私はやはり、リトアニアのつらい時代のことにもきちんと向き合いたいと思っていました。ソビエトからの独立を勝ち取るために、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の一般市民が手をつないで作った「人間の鎖」のエピソードが頭から離れなかったからです。
首都ビリニュスの目抜き通りに面した立派な建物が、かつての虐殺の現場だった建物でした。KGB(ソ連の情報機関かつ秘密警察)の監獄が置かれていた場所を、現在は博物館として一般公開しています。そうです、あのカーゲーベーが、ここにも拠点を置いていたわけですね。
清々しい空気を楽しみながら博物館へ向かったのですが、その壁は、犠牲になった人たちの名前で埋め尽くされていました。
ここに記された人たちはすべて、この建物内で処刑されたのでしょう。一人一人の人生をちょっと想像しただけで、胸がつぶれる思いがしました。
この壁を左手に見ながら角まで進むと、案内板が出ていました。ここで私は思わず、背筋が寒くなりました。
この案内板を目にするまで、日本語のガイドブックにあった「KGB博物館」を目指していたのです。しかし、現地での表現は、GENOCIDE VICTIMSーーつまり、大虐殺の犠牲者ーーという事実を全面に出したものでした。立ち位置によって、同じ事柄を異なった言葉で表現することになるのは仕方ないのでしょうが、この博物館の名前が日本語ではなぜ、KGBになったのでしょう? 「虐殺」という文言は、ガイドブックには使いづらいということでしょうか。日本人が何と言おうと、リトアニア人にとっては、大勢の同胞が、およそ理不尽な理由で命を奪われていった忘れがたき場所なのだと感じました。
ここを矢印の通りに曲がると、今度は子供たちの絵がいっぱい飾ってありました。おそらく、「平和への願いを絵にしましょう」と、学校の授業でやった(やらされた)感じだと思われます。力作ぞろいで、見ごたえがありました。
建物の入り口まで来たとき、「本当に中に入るよ、ね」と自分の心に確認する作業が必要でした。うまく言葉に表現できないのですが、これからすごいモノ・歴史的事実と向き合わなくてはならないということが嫌でも感じられる、ちょっと異様な感じのする建物だったのです。サ~っと涼しい風が吹いたような気がして、一瞬足がすくみました。
だって、入り口近くに、こんな解説文があるんですから。
館内で私たちは写真は一切撮りませんでした。有料だったこともあるけれど、そんな気分にはなれなくて。
印象的だったのは、ロシア語を話す少人数のグループがたくさん訪れていたことです。私たちはロシア語を理解できるわけではないですが、リトアニア語とロシア語の区別はつけられたので(多分)。そして、みなさん、本当にじっくりと、ゆっくりと、展示を見ていました。
拷問部屋も含め、”囚人”が暮らしていた空間をいくつも見ました。現実はもっと悲惨だったのだろうと、目の前の設備の3割引きぐらいの様子を想像したのですが、そうするとかなり過酷です。
展示されている資料や写真を見ながら、私は、そんなソビエト時代を生きた私の知人、Iさんのことを思い出しました。今は豊かに、自由な日々を謳歌している彼女とご主人は、年齢的にいって、過酷な時代をきちんと覚えている世代です。後日、私たちが、「KGB博物館に行ってきた」と伝えたら、「(あんな所に)行ったの!」と、目を丸くしていました。Iさんは行ったこともないし、行くつもりもないそうです。彼女にしてみれば、”よく知っている過去の話”で、もはや思い出したくもないのかもしれません。
どんな国にも、目を背けたくなるような歴史的な事実があるでしょう。バルト三国は、日本人の旅行先として最近、にわかに人気が出てきているそうですが、このような「つらかった時代」と向き合わないわけにはいかないものだと感じます。
博物館のリンクの英語版はこちらです。反ソビエトのレジスタンス活動の写真や博物館のコレクションなど、情報が豊富です。英語、リトアニア語、ロシア語のページのみですが、写真がかなりたくさん見られますので、重苦しい雰囲気は少しでも感じていただけると思います。