郵便とリアルでトラベルライフ

旅が大好き! Postcrossingを始めてからハガキで世界旅行。楽しいよ♫

京都への入り口に京都百読、する?

前回、京都に行きたいーーと書いた。

偽らざる気持ち。何といっても、「インバウンド客がいない、すいているうちに行かなければ!」と、それはもう、焦る気持ちでめちゃくちゃ前のめりになっている感じだ。

で、京都人・入江敦彦氏の『読む京都』を読み始めて、「テイストの合った羅針盤を手にした」という、静かな安ど感にじわじわと充たされている。

まえがきが、いきなり素晴らしかった。

 体験しただけで分かった気になることを、【アメしょん】(アメリカでしょんべんしてきただけじゃねえか、といこと、らしいです)とタグ付けし、うすっぺら~~な「行ってきました、見てきました」体験の典型例として、「キョートランド」のことを紹介している。このワードは、澤木政輝氏が毎日新聞大阪版で連載しているコラムにあったそうで(ネットで公開されているて全文読みたかったけど、有料だったのであきらめた)、祇園界隈や四条通りに忽然と出現する見せかけだけが古めかしい店舗群についての考察が(多分、痛快に)書かれていたらしい。筆者の澤木氏の言葉では、「まるで巨大テーマパーク『キョートランド』のようだ」となっているそうだ。

こうなってしまったのは、京都の人たちだけのせいではないだろう。問題は、澤木氏が書かれたという

他府県の会社や企業が屋号を変え、「〇〇年間創業」「××代目」の看板を掲げ、あたかも京都創業であるかのごとく老舗の擬態で商売する店

 であり、物見遊山のツアー客をガンガン送り込む、京都のきの字も知らない海外の旅行代理店と、その日本サイドのパートナーも同罪だと私は思う。そして、数をふやすことを良しとする観光政策の立案者・実行者も「何やってんだか」な感じがする。インバウンド客のマナーのひどさは何度もニュースになったが、とにかく、数が多すぎること自体が問題だと、今頃はみんな思っているんじゃないの?

私は、3年ほど前、「キョートランド」と化した京都のある地区で、まったく同じことを感じた。久しぶりの京都だから、事情をよく分からずに祇園へ入った瞬間、ペラッペラの「なんちゃって和服」を着て、セルフィ―しながら祇園を闊歩する大量の外国人観光客に飲み込まれそうになった。私の目に映った風景は、まったくもって、古都・京都ではなかった。

「ここはテーマパークじゃないぞ!」

と叫びそうになるほど動揺したのに、早々に撤退するのもくやしくて、10分ほど滞在し、「これ以上無理!」となったことを思い出すだけで怒りがこみあげてくる。

あの日、飲み食いしながら楽しそうに歩いていた大量の外国人観光客のように、日本人でもこういう所に喜んでいく人もいるでしょう。でも、そうじゃない人も、ちゃんと存在する。入江氏のこの文章には嬉しくて涙が出そうになった。

みうらじゅんいとうせいこうの名著『見仏記』を読んで普通に御開帳されている仏像を拝みにやってくる人たちのほうがよほどこの都市を涵養してくれる。彼らはキョートランドに興味はないし、それを避けるアンテナもある。

実は、今年の3月に京都に行くにあたり本を漁り、非京都人(発音は、よそさん)の手によるアメしょん本にひっかかってしまったのだった。もちろん、著者がよそさんなことが問題ではない。短期間だけど京都に住み、京都大好き女性が書いた内容にちょっとは期待し、現地で「あれ? あれれ?」ということが何度かあった。それ以来私は、そのアメしょん物書きの本(少なくとも京都に関するモノ)は一切読まない、と決めている。

この体験があったからだろう。この入江氏の本を私が「羅針盤」と感じた理由は、行くべき道を示してくれそうだと思っただけでなく、避けなければいけない岩(=アメしょん作家によるペラペラな京都本)を事前に教えてくれているからだ。入江フィルターにひっかかったアメしょん本、たくさんあって、危ない、危ない。

そう思っていたら、ご自身がこの本の使い方を指南されていました。百聞は一見に如かずに倣って、百読。

百読。それはアメしょんの百毒を避け、行政の頓珍漢な企画に惑わされず、京都の真の魅力に触れていただくための冴えたやりかた。百読後ーー実際には十冊でもいいんだけど、ともかくも活字の京都を歩いたあとで上洛すると景観の語る意味が見えてくる。風物の、芸術の、味覚の言葉が読めるようになってくる。

まずは、京都の「イケズ」を知るために、『紫式部日記』からスタートしますか。